奥尻島へ南西沖地震・津波からの復興と現在を視察に。

2011年06月22日 10:43

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6月19日、20日、北海道南西沖地震災害から復興した奥尻島に視察に行きました。今回の東日本大震災復興に、教訓となるであろう事象を、現地を見、また行政や住民の皆様からヒヤリングをと出かけました。岩手県選出の畑代議士、菊池代議士と3人の視察となりました。函館からHACで30分のフライトですんなりいけるはずでしたが、生憎の濃霧で飛行機は島の上空から函館に引き返し、江差まで車を飛ばし、フェリーで約2時間、島にたどり着いたのは夜! 長旅となりましたが、島民の皆様はフェリーが足ですから、良い機会ともなりました。

さて、20日役場で竹田総務課長さん、田中住民課長さんからお話を伺い、島内を1日ご案内いただきました。新村町長さんとは昼に合流。議会議長の麓さんにもお付き合いいただきました。皆様、公務多忙な中、有難うございました。

平成5年7月12日午後10時17分、ウニ漁解禁を明日に控え、漁師町の早い就寝を襲ったマグニチュード7,8の大地震、2-3分後に襲った津波の高さは最高で29m-31mとも。夜目にも黒い大津波がジェット機のような轟音で襲ったといいます。その恐怖はいかばかりだったでしょうか!

人口わずか4000人の島で死者172名、不明者26名、重軽傷者143名にも及ぶ大被害でした。町の予算規模が約50億円、被害総額は約664億円とも。この震災からの復旧復興がいかに困難であったか、想像にかたくありません。しかし国・北海道はもとより全国からの迅速な救援・支援の結果、震災から5年の平成10年3月定例議会で完全復興を宣言するに至ったのです。

被害にあったいずれの地区も、津波高より求められた防潮堤の背後に盛り土で、一定の高さに住宅や集落を再建。漁師の方からは家から海が見えないと苦情も。しかしいまやそれも慣れ親しんだ風景になっている様子。漁港では漁業の作業所などは現地盤に、住宅は高台に。写真のように、デッキのようになっているのがいざにというときの港からの避難道となり、高台まで逃げられる。

湾口整備や被害のあった(人家はないが)地区の防潮堤も津波高にそって張り巡らしている。

復旧・復興計画は6月以内に立てられ、震災2日後に仮設住宅も着工していったというから、取りくみの速さを感じる。国や北海道庁・開発庁の官僚がいち早く現地に入り役場を支援したことも大きかったという。まずは仮設住宅で住民に安心を。漁業者の前向きな活力を殺がないように浜に立てた共同作業所は功を奏し、「宝の海」を目の前にした漁業の再開に大きく貢献したという。

岩手の被災地で私が聞いた漁協の組合長さんも同じことを言っていたのを思い出す。「宝の海」に明日にも出たい!と。

避難所での健康管理や子どもたちの問題についても知見をいただいた。避難所暮らしを経験した子どもたちの「肥満」が長じても健康課題になっているという。親は住居や仕事の復旧で子どもたちに手をかけられず、お菓子や栄養の偏りで、肥満が多く発生。長じても課題となっている。

全国から寄せられた義援金の中から、90億円を原資として町に「災害復興基金」を積み、生活の安定、住宅の安定をはじめ、さまざまな復旧・復興計画を発て、とりわ基幹産業の漁業復興等を進めていったが、人材育成もそこに盛り込んだ。

親を亡くした子どもたちのためにこの人材育成基金を使って、社会人になるまで奨学金を町が出している。最後のお子さんが今年で終了するという。

この支援は重要なので、さっそく今日(22日)の厚生労働部門会議で第二次予算等の議論をしたので、私から同趣旨を子ども子育て基金から出せないか?と、発言しておいた。

一方で子供を亡くした親の精神的な支援の問題やPTSDの問題もお話にでた。忘れたころにゆっくりやってくるPTSD.今回の大震災でも、やはりこれから長期にわたる心身共に支援が必要となるでしょう。

町の復興計画に専門家や官僚のアドバイザーが必要で、それが大きく力になったという。復興のなかで新しく下水道の整備など島の生活の活性化につながったことも多い。

また仮設では営業できないサービス業=特に旅館やホテルなども復興基金で高台に再建していき、いち早い観光の復興に資したという。

港湾等の復旧・復興に大手ゼネコンがプラント船で入ったが、働く人は地元で採用して雇用も拡大した。

3年後には仮設住宅から住宅に移り、住民の暮らしにも落ち着きが見られたという。

「震災直後の住民の皆さんの持っている前向きな再起へのポテンシャルを落とさない施策を次々に打つことが重要ではないか」という総務課長さんのことばは、いま、まさに生きていると思った次第。

さて、帰りの飛行機は無事に飛び、いささか強行軍の視察を無事に終えたことでした。

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